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箕面市粟生間谷西地区(現在粟生第二住宅)にお守り地蔵があります。 私(野口店長)の家は、旧地区の奥の出身で、昔から稲作と切花(桃の花や雪柳などの木の花が中心)で生計をたてていましした。 だから、先代のおじいさんも今のおじいさんも歴代名前に松がつきます(松吉、丑松、由松といったように名前が付けられ屋号が花松と呼ばれいます)。 また、昔から酒米としても出荷しているほど品質のよいお米も生産され、酒蔵や地域を治める城主(攝津の国や三島藩)領土争いもあったり、勝尾寺の門前地域としても歴史のある古い地域です。明治初期から花作りやみかんやその後粟生のビワとして有名になったくらいこの粟生地域はどこの御家も農業の盛んな地域でした。そんな中で我が家の田んぼが今の粟生団地第二住宅にたくさんありました。 その中に三反まちというほどの大きな田んぼのそばにお地蔵さんが数体(六地蔵さん)ありました。五穀豊作と家内安全と子孫繁栄を祈るお地蔵さんは昔から地域のこどもたちの守り地蔵として育まれてきました。昭和40年代にはいり、宅地開発が進む中、この地も住宅公団に売却し宅地造成が始まりました。 (次の項目に当時の畑や田んぼの地形図の航空写真がありますので見て下さい。東今井と市の井の水利地区に家があります)
当時の青少年指導員であった故人酒居公明さんが、その話を聞きつけて、新しく開発された公団の第二住宅のお守り地蔵として鎮守の森に地蔵通りと名付けてその公園の通りに立派な祠(舘)・社を建てて頂きました。(昭和50年から53年のお話) ありがとうございました。こうして、見事に立派に再建され、今も毎年8月には地蔵盆の法要と多くの子どもさんや地域の人々を見守ってくれています。 (少しローカルなお話ですが、野口家先祖代々も大変喜んでいます。) 箕面市粟生間谷地区にお城があった ○箕面市史から引用(たまたま豊北小ページと同企画でびっくりでした)○○【郷土の地図】から豊北小のページへ動きます
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